「現代人はどれだけエネルギーを使用してよいのか 〜環境倫理学的考察〜」

清水真哉(東京歯科大学)
2002年6月29日日本環境学会における発表要旨

要旨:原子力発電の利用を止め、かつ温暖化対策のために化石燃料の消費を減らす上で、省エネ努力と自然エネルギーがそれぞれどのような役割を果たすべきかについての考察。

1. 原発をエネルギー問題の枠の中で考えることの誤り

 原子力発電はエネルギー資源の問題として議論されることが通常である。しかし私は既にこの問いの設定の段階で、疑問を感ぜざるを得ない。
 今失業率が大変高いわけであるが、ある失業者が生活に困窮した挙句、強盗を働いたとしたら、それを経済問題というであろうか。それは第一義的には道徳の問題となるはずである。
 どんなにエネルギーに困窮したとしても、電気を得るために、近寄っただけで生命に危険が及ぶような廃棄物の管理を後世の人間に強制するような犯罪行為が許されるはずがない。従って原発をエネルギー問題の範疇に置くことは間違ったことである。原子力発電は終始一貫、人間の倫理の問題として取り扱われなくてはならないのである。

2. 助け舟としての温暖化

 化石燃料に関しては、本来は将来世代に資源を残そうという慮りから、その消費を減らさなくてはならないはずである。しかしある意味、温暖化という、より差し迫った問題の登場によって、化石燃料の消費の削減については、より強い論点を持つことができた訳である。この点で人々を説得することに困難を感じていた者にとって、国際条約が結ばれるに到った温暖化問題が助け舟となった格好であるが、これには忸怩たる思いを禁じえない。人類はここまで危機が形になって見えないと、自らの文明のありかたを変えていくことが出来ないのかという失望感がある。もっとも温暖化という現実の異変を目にしつつも、なおその対策に乗り出すことに躊躇している様を目の当たりにすると、もはや何をか言わんやという気もするが、これは環境に影響を与える因子を出している集団と、真っ先にその負の結果をこうむる集団が、必ずしも一致していないことにも一因があろう。これはまた別の倫理学的症例であるとも言えるが、いずれは我が身に降りかかることでもあることに気が付きたがらない短視眼を指摘した方がよいのかもしれない。
 ところで温暖化対策としての原発という歪んだ議論の跋扈を許してしまっているのは、世代間の公正な関係という理念を十分に訴えてきていないからではないか。世代間倫理の視点からすれば、化石資源の保全は図られなくてはならないし、後世に選択の余地を残さない原発という選択肢もあり得ないのである。

3. 原発の代替としての自然エネルギーという考えの誤り

 私はかねてから原発の代替としての自然エネルギーという考えにも、疑問、違和感を持っている。
 原子力発電はまったく使用してはならないのだから、原発による発電分は全て消費量を削減しなくてはならない。温暖化対策、さらには将来世代のためには、化石燃料の消費も削減しなくてはならない。これらを考え合わせると自然エネルギーでは量的に到底追いつくはずがない。
 しかし私がこの場で問いたいのは量の問題ではなく、原発を動かさなくなった分を自然エネルギーで置き換えるという発想の問題である。
 原発・化石燃料消費削減の分は、そもそも使用の許されないものと自覚しなくてはならない。これは倫理的要請であり、代替手段があろうがなかろうが、否応無しに減らさなくてはならないのである。自然エネルギーの利用が可能でなくとも、原発の運転は止めなくてはならないし、化石資源の浪費は止めなくてはならない。
 泥棒を止めて、何かまっとうな稼業についた人が、「泥棒をする代わりに、これこれの職に転職したのだ」と言ったら、そこには滑稽なものがあろう。そこにある質の飛躍を見逃しているのである。犯罪は否応なく制止されるべきであり、正業に就くことは更生の後の新たな再出発のはずである。
 我々は泥棒ではないのだから、不正な手段により電力を入手することは即刻止めなくてはならない。生活をより豊かにするための方策を考えるのはその後のことである。
 それでは経済・市民生活に深刻重大な影響を及ぼすと人々は言い募るであろう。しかし、経済とはあくまでも今生きている世代内部での資源の配分の問題に過ぎず、未来世代の人間にとっては全く預かり知らぬことである。
 エネルギー消費量の削減など、本当は大したことではないのである。二十年、三十年前の生活に戻れば、それでよいことなのである。
 原発を止めるためには電気の使用量を大幅に減らさなくてはならないが、逆に電気を使わなくなれば原発は割とあっさり止まるかも知れない。ここにこそ原発を止めるための市民の運動の本道があると信じる。

4. 多くのことを諦める省エネ

 私は現行、進められようとしている温暖化対策の生ぬるさには、苛立ちを禁じえない。
 温暖化対策は本来痛みが伴うはずなのに、そこから逃げようとしているように思われてならない。省エネ機器に買い換えるとか、待機電力の削減とか、呼びかけが行われるのは、生活の利便をほとんど損なうことのないことばかりである。辛抱、我慢を求めるといったことは絶えてない。
 今の日本では原子力発電という恐るべき手段で発電しているということが信じられないほどの電気の浪費が常態と化している。
 ここ十年、温暖化への懸念が表明されるようになって以降でさえ、日本においてどれほど新たな電化製品が登場し、急速に増殖していったことであろう。そしてそれらはたちどころに生活必需品として手放せざるものと信じられるに到っている。
 環境や資源に関わる諸問題を真剣に考慮したら、エネルギーの使用を大幅に切り詰める必要があるはずである。代替エネルギーの開発ではなく省エネである。いや省エネルギーなどという生易しいことではなく、そもそものエネルギー使用を抜本的に減少させる必要がある。省エネ型の電気器具に切り替えるなどというのでなく、電気器具の使用自体を止める必要がある。(詳細は末尾の参考に書いたものをご覧になって下さい。)
 科学技術の力により太陽熱を電気に変える努力をする一方で、食器、布団、洗濯物などの乾燥機に見られるように、これまでごく普通に自然エネルギーによって行ってきたことに電力を用い始めるという逆向きの流れが進んでいる。根本のところでエネルギーの使用量を削減しようとする意志を制度化していかない限り、このような本末を転倒させた事象は止むことはないであろう。
 文明は利便性を高めるためにエネルギー効率を低下させてきた。これからは快適さのためには無限に資源を注ぎ込むのではなく、エネルギー消費単位あたりの福利を高めることを指標とすべきである。

5.「虚栄としての豊かさ」から「権利としての豊かさ」へ

 しかし遂に我々現代人が、本来自分達に許されていないエネルギーの使用を止め、与えられたもののみに自足するようになったとしよう。
 その後に、知恵ある科学者・技術者達が、太陽の光、風などの天の恵みをこれまでになかった形で利用する術(すべ)を新しく見出したとする。その時我々はその恩恵を、喜んで、感謝の気持ちを持って、しかしながら何のためらいもなく受け取ってよいのである。
 後世にとてつもない付けを残し、その処理のためのエネルギー使用を強制する原子力発電や化石資源の消尽競争による現在の偽りの繁栄を「窃取による豊かさ」、「虚栄としての豊かさ」と呼ぶとすれば、科学者・技術者が知恵を絞って手にした自然エネルギーによる豊かさは、人間の知恵の恩恵としての豊かさであり、「先人の遺産としての豊かさ」、「権利としての豊かさ」としてその享受が正当化される。それはそこに何の貢献もしていない後に続く人間(私など)にとっては「僥倖としての豊かさ」であるが、それこそが「文明としての豊かさ」であり、祝福されるべき豊かさなのである。(了)


清水真哉の環境問題

清水真哉のホームページ inserted by FC2 system